黒髪美少女の客体性
写真は『殻ノ少女』というPCノベルゲームの絵画、『躯』という作品。
この絵に論理的な美を感じる。
つまり、この絵は黒髪ロングの美少女が上半身のみにカットされ剥製にされオブジェとして扱われるという内容なのだが、そこに論理が通っていると感じる。
剥製化という行為が黒髪ロングの美少女にとてもお似合いなのだ。
何故そう感じるか。
命題として考えるなら、「サディズムの対象として黒髪ロングの美少女がお誂え向きなのは何故か」となる。
(ここでのサディズムは人を剥製オブジェとすること)
人のサディズムの実施対象に選定されるということは不幸に見舞われることに他ならず、単に「黒髪ロングの美少女に不幸がよく似合うのは何故か」と言い換えることもできる。
例えば同じPCノベルゲーム作品でいくと、『School Days』の桂言葉という黒髪ロングのお嬢様キャラクターはあるエンディングでは投身自殺をするし、またあるエンディングでは精神的に衰弱し三角関係にある別のヒロインをチェーンソーで切り付けたりと、作品における不幸の象徴となっている。
また同作がアニメ化されたゼロ年代後半は他にも複数の陰鬱なゲーム作品がアニメ化されているが、『Myself Yourself』の八代菜々香といい、『ef - a tale of melodies』の雨宮優子といい、作品自体がそもそも陰鬱であるがその中で飛び抜けて不幸な運命を背負うヒロインというのは大抵の場合黒髪ロングの美少女である。
ゲームやアニメに限らず、鬱漫画の金字塔、鬼頭莫宏の『なるたる』の小沢さとみ、『ぼくらの』の本田千鶴など、例を出せば枚挙に暇がない。
「サディズムの対象として黒髪ロングの美少女がお誂え向きなのは何故か」
「黒髪ロングの美少女に不幸がよく似合うのは何故か」
その結論を提示してみるなら、
サディズムとは対象の客体化であり、黒髪ロングの美少女というのはそれ自体が強い客体性を備えているからだ、となる。
「サディズム=対象の客体化」とはどういうことか。
「いじめ」「特殊性癖」、二つのサディズムを例に考えてみる。
いじめという加害行為がサディズムに基づいて実施されるというのはまず問題がないと思う。
ここにおいてサディズムが対象の客体化であるとはどういうことか。
箇条書きをしていくなら、
・殴る蹴る…相手をストレス解消の道具という物扱い(客体扱い)する行為
・集団無視…相手の存在(主体性)を認めない=客体と見做す行為
・言葉の暴力…相手の尊厳(主体としての有り様)を傷付ける=主体性を低減させる=客体性を上昇させる行為
また、いじめの被害に遭った人間は、
・臆病でもの言えぬ人形のようになる(人形=客体)
・内向的な人間になり自分の殻に篭るようになる(引きこもり=主体的な活動を行わないという意味で客体)
・精神的に衰弱し自殺する(死体=客体)
・別の場面でもいじめられやすい弱い人間となる(いじめの対象=客体)
と結果的にも客体性が上昇することになる。
逆を考えてみても、例えば
・いじめられない人間は体つきが良く身体的に主体性が高い
・いじめられない人間ははっきりと物を言い精神的に主体性が高い
・いじめられる人間が一度勇気を出しやり返すとそのいじめがパタリと止むということがある。「ああこいつはやるとやり返すのだ」と加害者側が認知することにより。ここにおいて当人の客体性は低減し、主体性が上昇している。
・いじめられる人間に対して例えば「この内気で何を考えているかわからない不気味な奴も家庭では家族と明るく楽しく過ごしていて、何か趣味や将来の夢などもあって」などと想起するとどこかいじめ辛くなる。ここにおいても当人の客体性は低減し、主体性が上昇している。
と客体性の低減、主体性の上昇によりいじめというサディズムを回避することができることが分かる。
これらから、サディズム=対象の客体化であり、サディズムの実施対象としては客体性の高い人間が相応しく、サディズムという行為自体によっても被害者の客体性が上昇してしまうという、サディズムと客体性との親和性を導き出すことができる。
もう一つの例、「特殊性癖」について。
ここで言う特殊性癖とはSMやフェティシズムのこと。
SMはその名の通りサディズムであるし、フェティシズムも実は対象の客体化というサディズムに他ならない。
・SMにおけるマゾヒスト側とはサディズムの実施対象としての客体である
・SMプレイというものはどれか一つ想起してみても相手方がまるで物のように(客体として)扱われる行為である
・例えば緊縛というサディズムにおいて、縛られた側の自由(主体性)は奪われ、客体性が上昇する。動くことができずまるで人形のようである(人形=客体)
・冒頭の『殻ノ少女』の剥製オブジェ化というのは正に「サディズム=客体化」である。四肢を奪い、行動の自由を奪い、尊厳を奪い、オブジェという物と化す加虐嗜好(オブジェ=客体)
・フェティシズムというのは対象の一部を「物」として切り取る眼差しで異常なまでに愛好する行為である
他に俗だがよく言われることとしてメンヘラほど性欲が強いというのがある。
性欲が強い=エロい=特殊性癖
メンヘラ=不幸=加害行為の実施対象となった人物=客体性が高い
特殊性癖というサディズムにおいても客体性との親和性が導かれることになる。
また、メンヘラとは何らかのトラウマを抱えた人物である。
客体性とはトラウマのことだいうこともできるかもしれない。
話を冒頭に戻す。
「サディズムとは対象の客体化であり、黒髪ロングの美少女というのはそれ自体が強い客体性を備えている。だからサディズムの対象として黒髪ロングの美少女がお誂え向きであり、黒髪ロングの美少女には不幸がよく似合う」というのが自分の論。
サディズム=対象の客体化ということは先に述べた。
では黒髪ロングの美少女それ自体の強い客体性とは何か。
それは勿論その人形のような(オブジェクティビティの高い)ルックスそのもののことである。
(何も黒髪ロングに限った話ではなく、お嬢様然としたロングであれば茶髪であっても良いし、これが黒髪ぱっつんボブであっても良い。要はその人形っぽさである。例えばセーラームーンの土萠ほたるなんかはそのドール然としたルックスからメンヘラ女子御用達のアバターだ。)
つまり、人形のような女の子はその人形のような見た目の為に不幸を呼び寄せている。
現実の黒髪ロングの美少女について列挙していくなら、
・まず一般論としてメンヘラな人間が多い(対人関係において不幸に見舞われた人間)
・あまり同性受けせず女の敵扱いされる
・そのアニメヒロイン然とした見た目からオタクやストーカーから一方的な気持ち悪い愛情をぶつけられがち
・これは例えるならアイドルが性被害に遭うのは自身がアイドルという「客体」として振る舞っているのだからサディズムという客体化行為の対象となるのは当たり前であるのと同じ理屈である
・誰かから好意を寄せられるにしても「美少女」というアイコンが好かれているのであって、彼女自身の主体性を愛されているのではないことが多く、入れ替え可能な客体として好かれているだけである
・だからその主体性(パーソナリティ)に鬱陶しさを感じたり、他の女性ができたなど男側に何らかの不都合が生じればすぐに物のように(客体として)捨てられてしまう
・その見た目に見合った物言わぬ大人しさ(客体性)からDV等の被害に遭う者も多く、同性間においてもハラスメント対象になりがちである
・勿論そのルックスから男性からのセクシャルハラスメントの対象にもなる
・メンヘラ女の恋愛パターンとして共依存というものが挙げられるが、これは互いが互いを単なる依存対象というコンテンツ(客体)として見ている不健全なものである
・彼女等はその見た目そのままにお人形としての実存を志向しており、そこには「老い」という恐怖が付き纏う
これらのように、彼女等はその人形性=客体性によってサディズムを始めとする不幸の対象となってしまっているのだ。
(古典漫画作品なども例に持ち出すなら異常環境で少女のまま育てられたヒロインがその少女性(=客体性)の為数奇な運命を辿ることとなる手塚治虫の『奇子』や、母の代理物という客体としての人生を歩まされたヒロインを見舞う悲劇を描いた楳図かずおの『洗礼』等も参考になるとは思うがここでは名前を挙げるに留める)
整理すれば、彼女等は
・そのモノっぽさ(客体性)の為に他者からの加害的なコミット(モノ扱い)を受忍しなければならない
・また、好意を受けるにしろそれは愛情ではなくモノに対する所有欲・支配欲である
・彼女等自身、自分で自分を認めるのではなく人からあるコンテンツ(モノ)として認められる「承認」という回路を希求している
・だからモノとしての自分の価値の上下に日々怯える
というように総じて危険なオブジェの世界を生きていると言えるのである。
(モノのようだからモノとして扱われ、モノのようだからモノとして承認を迫るしかなく。客体性というのはある意味「美人」の業ということもできるかもしれない。)
以上、黒髪ロングの美少女に何故これほど不幸が似合うのかということについて延々と考察してきた。
誤解されたくないのだが自分は何も不幸な黒髪ロングの美少女をこき下ろしたいのではなく、寧ろその逆でこれだけ深く考察するだけの強い関心を彼女等に対して抱いている。
自分自身、他者のサディズムによる不幸というものを幾度も経験した。
中学ではこっぴどいいじめに遭い、その影響で高校へ上がっても自閉的な人間となり、ここでの文脈に即して言えば心的外傷という客体性と自閉性という客体性から大学では何度も人間関係に失敗した。
そんな自分だからこそ彼女等にはどこか波長が合う感じを覚えるのである。
サディズムを回避するには客体性を下げることが必要だということは既に述べたが、この客体性の低減とはメンヘラ女子だけでなく自分自身の実存についても深く関わるテーマでもあったのだ。
客体性=トラウマということも先に述べたが、それでいけば客体性の低減とはトラウマの解消に他ならず、こんなものは精神科医であっても中々難しい。
美少女が美少女でなくなるという身体的客体性の低減が困難なのと同様、精神的客体性の低減もまた困難なのである。
そのような中でも何か自分自身で可能な低減の手法はないか。
考えたところ、ぼんやりとだが一つ思い当たったのがナルシシズムの放棄だ。
自分含めメンヘラというのはどこか不幸な自分自身を愛好しているところがある。
自分にはこんな傷があってと、他人から虐げられた経歴を大事そうに抱えるというような。
これは他人から受けた加害による心的外傷=トラウマ=客体性を自ら保持し続けているようなものである。
不幸な自分に酔っている人間はさらに不幸を呼び寄せるものであるが、これは「客体性の高い人間がサディズムという客体化行為の対象となる」というここでの文脈に合致する。
こういった気持ちの悪い自己愛を放棄することが、ある程度の客体性の低減=主体性の獲得に繋がり、人生を他人ベースではなく自分自身として語り直す、生き直す契機となるのではないか。
人生を自分自身として生き直す。
その具体的な実践についてはまたどこかで誰かの言を借りつつ語るかもしれない。
映画感想2021
20.『死霊館』
本作の悪魔ハンター然り物語の登場人物というのは何らかの役割を果たそうとする。それに対して現実社会のマウンティングだのハラスメントだのチンケなコミットしかできない人間の多いこと。
あまりにチンケだから自分の物語に「単に登場させない」ということも意思次第で可能ではないかと思える。そして自分はどのような役をやりたいか。(そんなこと考えて死霊館観る人いないわ)
21.『イル・ポスティーノ』
特定の気分を呼び起こす装置としての詩。
自意識の量のちょうど良さみたいな所をせこせこと頑張っている文化人気取りのような連中にはできない文学をやりたいと思っている。割りかし思いのままに感情表現をすることが多いのはその為だ。
誰にどう見られたいかという自意識を取っ払い一筆書きのようにありのままを描写する文章は書いていてとても心地が良い。現在の自己の気分が促進される感じがある。そしてこの様な表現こそがどこかの誰かやいつかの自分に幾許かでも爽やかな風を吹かせるものと信じている。私がしたいのは詩作であったか。
22.『プロメア』
情熱的な人間の纏う清涼感。僕も日々魂を燃やさなければな。今石作品はセカイ系でありながら庵野や新海的なウジウジした実存の話と連結していないのが独特の味だなぁ。
23.『地獄』
単に地獄のような人間模様を描いた映画かと思いきや後半マジの地獄パートが用意されてて古い映画なのに新鮮。
思ったこと:文化人は正しく地獄に落ちるだろうか?
文化というものがいたく低俗化した現代。才能、思考、容姿、心的外傷、自身の何らかの優位性・特殊性の承認をあの手この手で迫るという、文化のナルシシズム的なマイナス面が目立つ。
特異存在としての自分がまずあり、その自己の価値観に照らし「ここからここまでは許容するが、そこやそれは受け入れない」と外部に対し評価者的な狭量な態度でしか関わることのできない、自分をひとかどの存在と信じて疑わない我の張った人間ばかりになってしまった。
本作では殺人の罪を犯した者達が地獄で裁かれるが、人間関係における罪として殺人などという分かりやすいものは現代では稀であり、大半の争いはこの「我こそ正しい」という確信を抱いた文化人の間での正当性マウントの取り合いである。
根底にあるのが優位性・特殊性の承認という他者との比較である以上そこには明確に優劣が存在する。レベルの高い芸術と低い芸術とがあるように。せめて90点以上の思考ができなければ「我こそ正しい」などとはとてもならないはずであるが高々70点止まりの思考で自分がその域に達していると履き違えた輩が多い。
歌や文学を通して肯定される様々なちゃちな有り様、アニメ・漫画の浸透により醸成されたキャラクター文化、SNSという安易な自己発信ツールの台頭。自分の器を度外視し、いとも容易く何者かとして振る舞えてしまうようになった現代の文化低俗化が間違いなくその原因だ。
迷惑なことにレベルの低い文化人(=大した演算能力も思想も無いのに自分こそが絶対だと確信した人々)から衝突され、暴力的に自己の価値観の承認を迫られることがよくある。
「下らないことをする人間は自分自身の人生を下らないものにしてしまうという罰を受けている」
といったような無力な被害者側なりの気の休め方的なものがこの世にはあるが、絶対的な自己の価値観というものを抱いた“決して間違わない”文化人がどれほど人様に迷惑をかけたところで、彼らの中に「下らないことをした」などという意識は微塵も残らないのではないか。
地獄というものがあったとして、このような「自分なりの間違った正解を掲げて他者にコミットする阿呆による無自覚の罪」というものも正しく罰してくれるのだろうか。
24.舞台『魔王 JUVENILE REMIX』
中学の頃一番か二番に好きだった漫画の舞台化。特典映像でも原作ネタに触れていたりして観ていて結構楽しかった。
劇団メンバーの演技は全員中々。ゲストメンバーの演技は割とピンキリ。
①原作の台詞をそのまま読み上げる役者→単なるイケメンコスプレショー
②原作を意識しながらも自分の言葉で話す役者→感情移入できるリアルな演技
①の役者と②の役者との開きから舞台の安定感は欠けるが、きちんと役掴みをして②を要所要所取り入れることで①をやってもコスプレではなくキャラそのものになるような味のある役者もいて(岩西役の細見大輔)、原作では脇役ながら殆どこの役者が舞台の中心となっていた。
(実生活と演劇の連続性みたいなことを以降書きたかったけど筆が乗らないので一旦断念)
25.『プラットフォーム』
殆ど手放しで面白かった。こういうイカれた感じの洋画がとても好き。ミッドサマーとか。
思ったこと1:創造の阻害
一定のルールに基づいた密室を舞台にその裏をかいた数々の演出。すげーすげー、と観ていたけれど意外とどれも思いつきそうなアイデアではある。
それなら何故自分はそれを作品として結晶化できていないのか。日頃創造性を十分に発揮できていないから。創造と対極の破壊的な感情を誘発するような悪質な人間関係、創造に必要な集中力や感性を削ぐネット上の様々な行き過ぎた薬物のような娯楽。クリエイターになるには生活を変える必要がある。
思ったこと2:行き過ぎた娯楽
1での行き過ぎた娯楽というのはソシャゲやSNSやネトフリなんかを指したつもりだけど角度を変えると本作自体もある意味薬物、刺激物のような娯楽の一つであるように思える。
起承転までは質の高いSFスリラーとして展開されるが結になって誰もが気にしていた事の真相を投げっ放して急遽キリスト教色の強いメッセージ性映画と化してエンディング。途中まで文句無しに面白かっただけに高評価は変わらないがそれでもこの終わり方には違和感を覚える。
楽しみにさせるだけさせそれを結局最後まで描かない消化不良感。とは言え今時そのまま宗教映画なんてやっても誰も観ない訳で、客寄せというかエンタメとしてまず過激描写多めのSFスリラーをやったその上で宗教映画化という構成を取らざるを得なかったのではないか。でその結果としての投げっぱなしEND。
現代文化人の多くは結構な不感症だ。日々様々なコンテンツが生産される中でより強刺激の娯楽でしか感動できなくなってしまっている。この年齢制限付き宗教映画『プラットフォーム』はそんな現代文化の表れではないか。
映画に限らず漫画にしてみても流行の『鬼滅の刃』『呪術廻戦』『東京卍リベンジャーズ』、昔の少年漫画には無いような物語展開に、少年漫画にしては割とエグめの描写(その低年齢層への悪影響はまた別で触れるとして)と、強刺激性の目立つ大衆向け作品が増えた。
昔の娯楽は現実より少し面白い世界に一時的に逃避できる程度のものであったが(=消費者の生活ベースはあくまで現実)、昨今の強刺激娯楽に慣れ親しんだ現代文化人はそれよりはるかに低刺激である現実生活の中で十分な感動を覚えられないのではないか。娯楽の過剰についてもっと思考する必要がある。
26.『オールド・ボーイ』
こんな何気無くAmazonで100円でレンタルして観た作品が自分のベスト映画になるとは思わなかった。観たいもの全てが詰まっていた。この作品に関しては余計な感想は書かないことにする。
27.『ガタカ』
遺伝子の質で人生が決まってしまう管理社会で自己の身分を偽り夢を叶えようとする。他人から肩書きを借り、血液を借り、尿を借り、綱渡りのように適正検査を潜り抜ける。
主人公のこの“綱渡り”感覚には結構共感する所がある。
物心ついた頃からハンディキャップの20や30を所与の物として人生を送っている。日頃から障害者障害者言っているのは別にネタではない。例えば女性と会う際には以下のようなことをして自己を偽っている。
・身体醜形障害→自分の外見に自信が持てないので会う前には必ず美容院へ行きスタイリングをしてもらう
・社会不安障害→女性と話すと異常に緊張してしまうので1時間障害者用トイレで腹式呼吸を行い完全にリラックスし声が良く通るようになってから臨む
残りのハンディキャップについても本作の主人公ばりの気力で一つ一つ対策を講じていけばもっと色んなことができるのではないかと思う一方、こんな根性発揮できる人間が劣等遺伝子とか物語設定破綻してるだろと「努力できるのも才能」論みたいなことを思ったりもする。
努力すれば変わる、ただ努力できるのは才能、それなら努力できるようにする為の環境構築だろうということは何となく分かる。またこの環境構築というのが突き詰めれば殆ど「徳を積む」ということに他ならないだろうということも。
28.『TENET テネット』
ぼーっと流し見してたのもあるけど正直20%も理解できなかった。思えば高校受験以降脳味噌なんて鍛えずほったらかしかもしれない。全然関係無いところで洋服ってやっぱ外人のものだなと思った。あとニールってハリポタのセドリックか。なんだこの感想。
29.『虐殺器官』
この作品は数年前原作を読んだ。地の文が抜けるとここまで物足りなく感じるものか。そもそも一度消費した作品という時点で面白さ半減だがつい観てしまったのは何となくネトフリにあったから。「外注に出す」という原作の言い回しが印象深い。現代人は娯楽の選択すらも外注に出している。
文明が進み人の種々の行為や能力を外部のツールに委ねてしまうことは、自分自身の感覚・感情、果ては生きていることの実感を希薄にしてしまうのではないか。本作ではそんなような問題意識が描かれている。
無きゃ無いで別に観ないレベルの作品を動画配信サービスで抱き合わせ的に消費させられ、ソシャゲで一枚のレアカード欲しさにプライベートでまで事務仕事をさせられ、ネット配信者に自分の日々の楽しさの発見を委託し、SNSで極めて低質な情報と承認の獲得に時間を費やす。
現代文化人は果たして日々豊かに感情を動かしていると言えるだろうか。ジョン・ポールの台詞を借りれば「断言してあげよう。フラットだ。」
30.『メメント』
前向性健忘(発症以前の記憶はあるものの、それ以降は数分前の出来事さえ忘れてしまう症状)という記憶障害に見舞われた男が、最愛の妻を殺した犯人を追う異色サスペンス。
(どっかのレビューサイトから引用)
記憶が保たない為、主人公は自分の身体や部屋の壁に重要事項をメモし目に付く度記憶が蘇るようにしている。自分も記憶障害ではないが同じことをやったことがある。自分にとっての日々読み返すべき教訓の数々を壁中に貼った。
何らかの効果があったのかは微妙なところだが、一つ言えるのはそれは単なる目に入る情報であって、自分の中から繰り出される思考はないということ。
教訓というのは事あるごとにその都度思考され直され血肉化していくものだと思っている。目に入った情報をその場その場で頼りにするだけでは自分本来の思考力も育たない。
同様のことは自己啓発本に関しても言えるように思う。読んでいる最中はやる気に満ち、良い波に乗り自分が生まれ変わったかのような感覚に陥るが、所詮は本から情報を借りてきているだけだけであり、思考力を養っていない為書から離れれば元の凡人に早戻りしてしまう。
しかし他者から思考を仕入れるという点は学校教育なんかも同様だ。そして教師、隣人などから必要な知見を仕入れることが叶わない人間にとって代わりとなるのは本だったりもする。であれば自己啓発本を一概に悪い物とすることもまたできないのではないか。要は程々にということか。
31.『MINAMATA ミナマタ』
主演女優の手塚マンガのヒロイン感に惹かれて何と無く観てみた。導入部はジョニーデップがオーラあるのと音楽演出で結構洒落ている。ヒロインはやっぱり綺麗。ただ後は普通に公害問題の話で特に刺さるもの無し。
世代が違うというのも勿論あれど、こういった社会問題のようなテーマにまるで興味が持てない。この間観たデスノ作者の『プラチナエンド』(自殺志願の高校生の話)の方が天使だの超能力だの現実離れした設定であるにも関わらず余程感情移入できる。
実存を脅かされた個人、どうしたって社会問題なんかよりこちらの方が断然自分にとってのリアリティなのだ。ただこういったテーマにこの歳になって未だに共感するというのは問題でもあるように思う。心理的な未クリア課題が自分の中に積まれたまま残っていることの証左であるため。
また、体感だけどこういった心理作品よりも社会・歴史・自然的なものを描いた作品(漫画で言えば例えば『火の鳥』『ヒストリエ』だとか)を面白く読めている時の方が精神的に好調な感じがする。
・心理作品-自己への関心
・社会作品-他者への関心
社会作品を愛好するようなメンタリティ
=自己への関心が希薄=心理的な問題について思考せず健全
また内部に閉じず外部に開かれたモードであるからそれだけ他者との交流も良質化
というようなことを考える。そうすると今回つまらんで片付けたこの社会映画も蔑ろにはできないのかなとか思う。
32〜39.『ハリー・ポッター』シリーズ
ハリーポッターシリーズを6まで通して観た。ダーズリー家に乗り込んでくるハグリッドのあの頼もしさ。9と3/4番線、ロン、マルフォイ。懐かしい。
ディズニーランド行って帰ってきたみたいな視聴後感が好きで1作目が一番良い。キャラはセドリックがかっこいい。トムリドルの声優が石田彰と福山潤なのも良い。
ハリーポッター残ってた最終話も観る。
良かったとこ
・マルフォイ庇って箒に乗せるハリー
・強すぎるロンのかーちゃん
・何作振りかの秘密の部屋とか所々原点回帰感
・ネビル
・スネイプ
悪かったとこ
・シリウス、マッドアイ等主要キャラが大した活躍せず退場
・ポッと出なのに主要キャラ殺戮しまくった一点のみでやたらキャラ立ちするベラトリックス
・ジェームズのスネイプ虐めの未解決感
・主人公サイドの努力→成長という回路の無さ
・敵サイドの悪役なりの目的みないなものの無さ
大作なだけあって見終えた後のカタルシスのようなものはそれなりにあったけど、ファンタジー路線の1〜4に比べてダークファンタジー路線の5〜8は二、三枚落ちる感じ。日本の行き過ぎた感もあるダークファンタジーに慣れ親しんだせいか色んな面で物足りなさを感じた。
あまり考えたことなかったけど日本の物語作品が暗い想像力に極端に長けてるの何故だろう。海外の割とエグい作品にしても例えばイカゲームの監督は日本のアニメ漫画に大分影響受けてるし、ミッドサマーの監督は園子温の大ファンらしいし。
40.『少林サッカー』
約20年ぶりに少林サッカー観たけどここでお茶吹きそうになるのは変わらず。
41. 『天使のたまご』
今からアマプラで天使のたまご観ます。多分寝落ちします。
↓
で実際に寝落ちした。こういった衒学作品にもう殆ど興味が無くなっている。
42. 『日の名残り』
ある時交差し離れた男女が時を経て再開し、もう二度と交わらないことを知る。それだけのストーリーがきちんと心にくる。
一度しかない人生で後悔の無い選択をするには自分の人生が確かに一度しかないということを全身で自覚することが重要であるように思う。
ノイズのような下らない人間関係や情報を相手にせず、日々生の一回性にしっかりと耳を澄ませること。
43.『聖なる呼吸:ヨガのルーツに出会う旅』
ヨガは呼吸と集中の修行。
幸福感が得られる、アイデアが浮かぶ、脳が活性化する、気持ちが落ち着く、意識がクリアになる、せわしない心に静けさがやってくる。
44. 『はじまりのうた』
イヤホンスプリッターで二人で同じ音楽を聴きながら街を散歩するシーンがとても良かった。
ダン「音楽の魔法だー平凡な風景が意味のあるものに変わる。陳腐でつまらない景色が美しく光り輝く真珠になる。年を取るほどこの真珠がなかなか見られなくなる」
グレタ「糸ばっかり?」
ダン「糸をたどらないと真珠には届かない。今この瞬間は真珠だ」
グレタ「輝いてる」
ダン「すべてがね」
45. 『三国志』
46.『三国志Ⅱ 天翔ける英雄たち』
誰を潰すか、何処から責めるか、いつ決行するか、どう躱すか、どの程度譲歩するか、考えてみれば自分が会社の連中とやってるのは正しくそんな戦争で、その点はこの三国志となんら変わらないなと思った。孔明よろしくこの連休で策練るか。あと城と嫁欲しい。
47. 『アメリカン・サイコ』
≪『アメリカン・サイコ』は、そんな現代を20年前から風刺していたのだからジョージ・オーウェルの『1984年』(1949年)を凌駕する先見性で、SNSの出現によるナルシシズムの世界的な標準化を予見していた様にも思えてしまうほど。≫
作品自体はそれ程でもレビュー読んでまあ観て良かったかなとなるのは割とありがち。「SNSの出現によるナルシシズムの標準化」自分も他の映画感想を通して都度文化人批判をしてきたけど言いたいのは結局これだなってなった。思ってる事なるべく自分の言葉でアウトプットしたいし来年は文筆活動頑張るか
48.『CURE』
この作品におけるCURE(治療)とは人の内に抑制された憎悪の催眠による覚醒(=外在化)。意思に関わらず己の暴力性が解放されることの恐怖を描いている。そして真に怖いのはこれが何も催眠などによらずとももっとふとしたことで引き起こされるのではないかと思えてしまうこと。
例えば作中の催眠術師の掴み所の無いふざけた言動に翻弄された刑事が思わず手を出してしまうシーン、これとて己の意思に反した暴力性の解放と言える。自分は職場で割と四面楚歌のような状態で働いているが、こんな具合にうっかり挑発に乗り上司を蹴り飛ばしてしまったらそれだけでもう人生おじゃんだ。
自分の内なる暴力性と日々どう付き合っていれば今後も自分が決して道を踏み外さないことの保証が得られるだろう。直接他者に向きさえしなければ本作のような外在化も有効な手段だろうか。またそもそも暴力性を育まない為にはどう生きれば良いだろう。
49. 『生きる』
「わしは、人を憎んでなんかいられない。わしには、そんな暇はない。」
無気力なおっさんが胃癌を患うことで死を想起しメメント・モリ方式で生のリアリティを再獲得し市民の為に奔走するという映画。
特に重病なんか患わずして日常的にこのモードに入れたら強いだろうなってことと、崇高な目的の下に動いていればそれだけで人より一段上を位置取ることになって下らん連中を自動的に下層化できるというか特段自分の中に汚い悪意を蓄えずして極くナチュラルにマウントを張れるんだよなってことを思った。
50.『GARNET CROW livescope 2010 THE BEST TOUR』
ラストは気楽にガネクロのライブDVDと思ったけど年末年始のだらけで途中見で辞めてしまった。