黒髪美少女の客体性
写真は『殻ノ少女』というPCノベルゲームの絵画、『躯』という作品。
この絵に論理的な美を感じる。
つまり、この絵は黒髪ロングの美少女が上半身のみにカットされ剥製にされオブジェとして扱われるという内容なのだが、そこに論理が通っていると感じる。
剥製化という行為が黒髪ロングの美少女にとてもお似合いなのだ。
何故そう感じるか。
命題として考えるなら、「サディズムの対象として黒髪ロングの美少女がお誂え向きなのは何故か」となる。
(ここでのサディズムは人を剥製オブジェとすること)
人のサディズムの実施対象に選定されるということは不幸に見舞われることに他ならず、単に「黒髪ロングの美少女に不幸がよく似合うのは何故か」と言い換えることもできる。
例えば同じPCノベルゲーム作品でいくと、『School Days』の桂言葉という黒髪ロングのお嬢様キャラクターはあるエンディングでは投身自殺をするし、またあるエンディングでは精神的に衰弱し三角関係にある別のヒロインをチェーンソーで切り付けたりと、作品における不幸の象徴となっている。
また同作がアニメ化されたゼロ年代後半は他にも複数の陰鬱なゲーム作品がアニメ化されているが、『Myself Yourself』の八代菜々香といい、『ef - a tale of melodies』の雨宮優子といい、作品自体がそもそも陰鬱であるがその中で飛び抜けて不幸な運命を背負うヒロインというのは大抵の場合黒髪ロングの美少女である。
ゲームやアニメに限らず、鬱漫画の金字塔、鬼頭莫宏の『なるたる』の小沢さとみ、『ぼくらの』の本田千鶴など、例を出せば枚挙に暇がない。
「サディズムの対象として黒髪ロングの美少女がお誂え向きなのは何故か」
「黒髪ロングの美少女に不幸がよく似合うのは何故か」
その結論を提示してみるなら、
サディズムとは対象の客体化であり、黒髪ロングの美少女というのはそれ自体が強い客体性を備えているからだ、となる。
「サディズム=対象の客体化」とはどういうことか。
「いじめ」「特殊性癖」、二つのサディズムを例に考えてみる。
いじめという加害行為がサディズムに基づいて実施されるというのはまず問題がないと思う。
ここにおいてサディズムが対象の客体化であるとはどういうことか。
箇条書きをしていくなら、
・殴る蹴る…相手をストレス解消の道具という物扱い(客体扱い)する行為
・集団無視…相手の存在(主体性)を認めない=客体と見做す行為
・言葉の暴力…相手の尊厳(主体としての有り様)を傷付ける=主体性を低減させる=客体性を上昇させる行為
また、いじめの被害に遭った人間は、
・臆病でもの言えぬ人形のようになる(人形=客体)
・内向的な人間になり自分の殻に篭るようになる(引きこもり=主体的な活動を行わないという意味で客体)
・精神的に衰弱し自殺する(死体=客体)
・別の場面でもいじめられやすい弱い人間となる(いじめの対象=客体)
と結果的にも客体性が上昇することになる。
逆を考えてみても、例えば
・いじめられない人間は体つきが良く身体的に主体性が高い
・いじめられない人間ははっきりと物を言い精神的に主体性が高い
・いじめられる人間が一度勇気を出しやり返すとそのいじめがパタリと止むということがある。「ああこいつはやるとやり返すのだ」と加害者側が認知することにより。ここにおいて当人の客体性は低減し、主体性が上昇している。
・いじめられる人間に対して例えば「この内気で何を考えているかわからない不気味な奴も家庭では家族と明るく楽しく過ごしていて、何か趣味や将来の夢などもあって」などと想起するとどこかいじめ辛くなる。ここにおいても当人の客体性は低減し、主体性が上昇している。
と客体性の低減、主体性の上昇によりいじめというサディズムを回避することができることが分かる。
これらから、サディズム=対象の客体化であり、サディズムの実施対象としては客体性の高い人間が相応しく、サディズムという行為自体によっても被害者の客体性が上昇してしまうという、サディズムと客体性との親和性を導き出すことができる。
もう一つの例、「特殊性癖」について。
ここで言う特殊性癖とはSMやフェティシズムのこと。
SMはその名の通りサディズムであるし、フェティシズムも実は対象の客体化というサディズムに他ならない。
・SMにおけるマゾヒスト側とはサディズムの実施対象としての客体である
・SMプレイというものはどれか一つ想起してみても相手方がまるで物のように(客体として)扱われる行為である
・例えば緊縛というサディズムにおいて、縛られた側の自由(主体性)は奪われ、客体性が上昇する。動くことができずまるで人形のようである(人形=客体)
・冒頭の『殻ノ少女』の剥製オブジェ化というのは正に「サディズム=客体化」である。四肢を奪い、行動の自由を奪い、尊厳を奪い、オブジェという物と化す加虐嗜好(オブジェ=客体)
・フェティシズムというのは対象の一部を「物」として切り取る眼差しで異常なまでに愛好する行為である
他に俗だがよく言われることとしてメンヘラほど性欲が強いというのがある。
性欲が強い=エロい=特殊性癖
メンヘラ=不幸=加害行為の実施対象となった人物=客体性が高い
特殊性癖というサディズムにおいても客体性との親和性が導かれることになる。
また、メンヘラとは何らかのトラウマを抱えた人物である。
客体性とはトラウマのことだいうこともできるかもしれない。
話を冒頭に戻す。
「サディズムとは対象の客体化であり、黒髪ロングの美少女というのはそれ自体が強い客体性を備えている。だからサディズムの対象として黒髪ロングの美少女がお誂え向きであり、黒髪ロングの美少女には不幸がよく似合う」というのが自分の論。
サディズム=対象の客体化ということは先に述べた。
では黒髪ロングの美少女それ自体の強い客体性とは何か。
それは勿論その人形のような(オブジェクティビティの高い)ルックスそのもののことである。
(何も黒髪ロングに限った話ではなく、お嬢様然としたロングであれば茶髪であっても良いし、これが黒髪ぱっつんボブであっても良い。要はその人形っぽさである。例えばセーラームーンの土萠ほたるなんかはそのドール然としたルックスからメンヘラ女子御用達のアバターだ。)
つまり、人形のような女の子はその人形のような見た目の為に不幸を呼び寄せている。
現実の黒髪ロングの美少女について列挙していくなら、
・まず一般論としてメンヘラな人間が多い(対人関係において不幸に見舞われた人間)
・あまり同性受けせず女の敵扱いされる
・そのアニメヒロイン然とした見た目からオタクやストーカーから一方的な気持ち悪い愛情をぶつけられがち
・これは例えるならアイドルが性被害に遭うのは自身がアイドルという「客体」として振る舞っているのだからサディズムという客体化行為の対象となるのは当たり前であるのと同じ理屈である
・誰かから好意を寄せられるにしても「美少女」というアイコンが好かれているのであって、彼女自身の主体性を愛されているのではないことが多く、入れ替え可能な客体として好かれているだけである
・だからその主体性(パーソナリティ)に鬱陶しさを感じたり、他の女性ができたなど男側に何らかの不都合が生じればすぐに物のように(客体として)捨てられてしまう
・その見た目に見合った物言わぬ大人しさ(客体性)からDV等の被害に遭う者も多く、同性間においてもハラスメント対象になりがちである
・勿論そのルックスから男性からのセクシャルハラスメントの対象にもなる
・メンヘラ女の恋愛パターンとして共依存というものが挙げられるが、これは互いが互いを単なる依存対象というコンテンツ(客体)として見ている不健全なものである
・彼女等はその見た目そのままにお人形としての実存を志向しており、そこには「老い」という恐怖が付き纏う
これらのように、彼女等はその人形性=客体性によってサディズムを始めとする不幸の対象となってしまっているのだ。
(古典漫画作品なども例に持ち出すなら異常環境で少女のまま育てられたヒロインがその少女性(=客体性)の為数奇な運命を辿ることとなる手塚治虫の『奇子』や、母の代理物という客体としての人生を歩まされたヒロインを見舞う悲劇を描いた楳図かずおの『洗礼』等も参考になるとは思うがここでは名前を挙げるに留める)
整理すれば、彼女等は
・そのモノっぽさ(客体性)の為に他者からの加害的なコミット(モノ扱い)を受忍しなければならない
・また、好意を受けるにしろそれは愛情ではなくモノに対する所有欲・支配欲である
・彼女等自身、自分で自分を認めるのではなく人からあるコンテンツ(モノ)として認められる「承認」という回路を希求している
・だからモノとしての自分の価値の上下に日々怯える
というように総じて危険なオブジェの世界を生きていると言えるのである。
(モノのようだからモノとして扱われ、モノのようだからモノとして承認を迫るしかなく。客体性というのはある意味「美人」の業ということもできるかもしれない。)
以上、黒髪ロングの美少女に何故これほど不幸が似合うのかということについて延々と考察してきた。
誤解されたくないのだが自分は何も不幸な黒髪ロングの美少女をこき下ろしたいのではなく、寧ろその逆でこれだけ深く考察するだけの強い関心を彼女等に対して抱いている。
自分自身、他者のサディズムによる不幸というものを幾度も経験した。
中学ではこっぴどいいじめに遭い、その影響で高校へ上がっても自閉的な人間となり、ここでの文脈に即して言えば心的外傷という客体性と自閉性という客体性から大学では何度も人間関係に失敗した。
そんな自分だからこそ彼女等にはどこか波長が合う感じを覚えるのである。
サディズムを回避するには客体性を下げることが必要だということは既に述べたが、この客体性の低減とはメンヘラ女子だけでなく自分自身の実存についても深く関わるテーマでもあったのだ。
客体性=トラウマということも先に述べたが、それでいけば客体性の低減とはトラウマの解消に他ならず、こんなものは精神科医であっても中々難しい。
美少女が美少女でなくなるという身体的客体性の低減が困難なのと同様、精神的客体性の低減もまた困難なのである。
そのような中でも何か自分自身で可能な低減の手法はないか。
考えたところ、ぼんやりとだが一つ思い当たったのがナルシシズムの放棄だ。
自分含めメンヘラというのはどこか不幸な自分自身を愛好しているところがある。
自分にはこんな傷があってと、他人から虐げられた経歴を大事そうに抱えるというような。
これは他人から受けた加害による心的外傷=トラウマ=客体性を自ら保持し続けているようなものである。
不幸な自分に酔っている人間はさらに不幸を呼び寄せるものであるが、これは「客体性の高い人間がサディズムという客体化行為の対象となる」というここでの文脈に合致する。
こういった気持ちの悪い自己愛を放棄することが、ある程度の客体性の低減=主体性の獲得に繋がり、人生を他人ベースではなく自分自身として語り直す、生き直す契機となるのではないか。
人生を自分自身として生き直す。
その具体的な実践についてはまたどこかで誰かの言を借りつつ語るかもしれない。